森の長の一言

このページは我が68団の創立者の一言を集めて掲載しております。

2018年4月2日

永らくお休みして御迷惑をおかけしました。つれづれなるままに古い文集を読み返している。発団の時、創ったモットーが「原則を忠実に守る事によって理想団を創ろう。」である。また、言い習わして来た言葉に「ボーイスカウト何の為」がある。

2018年4月4日

ボーイスカウトを学ぶ人は是非その歴史を学んでほしい。丁度良い本がある。中央公論社の中公新書「ボーイスカウト」である。著者は岡山大学教授の田中治彦氏である。新書版 200 ページの手頃な読みやすい本で是非一読を勧めたい。

2018年4月8日

森の長として自分のことを措いて三島総長の著作を借用したいと思います。この文は三島総長が毎日新聞の求めに応じて昭和四十年二月二十五日から三月七日まで掲載されたものであります。これが総長の遺稿となりました。タイトルは「ボーイスカウト十話」で、全 25 ページです。
第一話 天皇陛下
日本のボーイスカウト運動の四十余年の歴史を振り返ってみると、一方にはいろいろの人びとから恩恵を受けたことを決して忘れてはならぬが、また一方には、さまざまの方面から迫害も受けた。その最たるものは、軍部の硬派で、スカウト運動の国際性を嫌ってついに政府をして解散を命じさせた。これらの苦難のなかで、これまで成長した大きな理由は、まず創始者ベーデン・パウエル卿の天才的な、そして魅力的な教育法と、それに魅せられた多くの人びとの信念的な協力一致であるとでもいえようか。
ではこの運動が、どうして日本に伝えられ、そしておこったか。
天皇陛下はお若いころ、よく側近の人びとに「わが国のボーイスカウト運動に火をつけたのは、わたしだよ」と冗談のように、おっしゃったそうだ。この話しを伝え聞いた当時我々はこおどりして喜び、公開の席などでこれを言ったりすると、当時のなかましやの先達(せんだつ)佐野常羽に「袞龍」(こんりょう)の袖にすがって、この運動をひろげようとは、恐懼(きょうく)の至り……」てなことでしかり飛ばされて、これは禁辞となっていた。が、陛下のこのご冗談はまんざら火のないことではなかったのである。

2018年4月15日

陛下が皇太子でご渡英になったのは、大正十年で、その五月十七日にパウエル卿を謁見された。卿はスカウト精神と、その教育法についてお話し申し上げたが、なかでも彼は、スカウト教育は、人に信頼される人間をつくること、その精神の究極の目的は、世界平和にあることを強調し、また彼が日本精神に心から傾倒していること、それを取り入れたことを御礼申したいと言った.現に卿の多くの著書の中には、至る所で日本精神をほめている。
って そして、殿下は二十一日には、エジンバラ市のスカウトラリー(集会)にお出でになった。殿下の、この時のお言葉を当時の毎日新聞社出版の「御外遊記」(二荒・澤田両氏共著)の中から抜粋すると(原文のまま)「…予ハ斯クノ如ク美シキ精神ヲ保持シタル本運動ガ、当然収ムベキアラユル成功ヲ嬴チ得ルコトヲ切ニ祈ルト共ニ、最近日本ニ於イテ同ジ目的ヲ以テ起コリタル少年団運動ガ、時ヲ逐ウテ、今日此処ニ見ルガ如キ進歩ノ域ニ達シ、此ノ運動ノ目的トスル貴キ使命ヲ実現スルニ協力センコトヲ望ムモノナリ」
このお言葉をはるかに日本で聞いた我々は奮起して、その翌年四月十三日に、少年団日本連盟が発足したのだから、このお言葉で火がつけられた、とは冗談以上の真実である。
この時、パウエル卿はこの殿下のおことばに感激し、ボーイスカウトの最高功労賞、シルバー・ウルフ章を、殿下に贈呈した。これは、日本人として、いや東洋で第一号の贈呈であった。ところが、この功労賞は、皇居の戦災で焼かれてしまった。戦後、それを伝え聞いたパウエル未亡人や英国の古いスカウト指導者たちは、これを悲しんで、早速再交付してきた。
戦後、進駐軍内のスカウト出身者の助けで、他の国際団体に魁けて、日本ボーイスカウトは再建された。その再建記念の大会は皇居前広場で行われ、昭和二十二年九月二十四日には、当時占領下のドウリットル公園(日比谷公園にこんな名前をつけるとはGHQの失政だが)で、ラリーが行われ、天皇、皇后両陛下と、皇太子、義宮両殿下がお出になり、陛下は、本当に御嬉しそうだった。久し振りにユニホームを着て、元気いっぱい行動する日本少年の姿をニコニコとご覧になって、陛下は「よかったね。こんなに美しい平和な子供の運動がこんなに早く再建できて、本当によかったね。」とお顔をほころばせてお喜びになってのお言葉に、私達は四十年の苦労も吹き飛んだ。そして、そばにそれを聞いた白髪の年寄り指導者たちのなかには、そっと涙をふいたものが、何人かあった。

乃木希典
日本に初めて、ボーイスカウトを紹介したのは、牧野伸顕と北条時敬と乃木希典(陸軍大将)の三人である。
牧野は元来、寸暇を惜しんで新刊洋書を読む趣味があったが、ボーイスカウトが英国にできたその翌年の 1908 年に、もうその本を得て読み、その神髄を感じた。これは義兄のベルギー大使秋月左都夫が、実地に見て感心し、文相の牧野にその資料を送ってよこしたのであった。牧野は文部省に、文献や具用服装など取り寄せて、研究を命じたが、当時の文部省では学校教育で手一杯で、これを理解し研究しようとするものはいなかった。
それで牧野はその翌年、欧州へ教育視察に行く北条時敬(広島高師校長)にこの研究も依頼した。さすが北条は、これに興味を持ち、資料を集めて帰り、広島高師の教授達にその研究をすすめたが、これもやっぱりついてくる者がなかった。それで北条は、その附属中学の少年たちにスカウトの話しをしたところさっそく彼等自身でそれらしいものをつくり、野外訓練など試みたがるので、北条はめんどうを見てやった。短い間だったが、このなかから、のちにボーイスカウトの実践的指導者として、その指導と研究に一生をささげ、いまや老軀病に倒れ、片目の視力を失いながらも弱視の独眼で、天眼鏡をたよりに、まだ研究に余念のない求道者中村知が出ている。
が、もう一人、少し突っ込んで、まねらしいものをしたのは、乃木学習院長であった。
乃木は英国のキッチナー元帥と心の友であった。このキッチナーはまたベーデン・パウエル卿の心の友であったので、こんな関係から、このボーイスカウトの資料写真などが、乃木の手にはいり、深くこれに興味をもった。
これよりさき、乃木は旅順の戦いで、多くの部下を失い、度々申し訳ないと、しょんぼり凱旋していたとき、明治天皇は、乃木の心を見抜かれたか「乃木、お前は二人の子を失ってさぞ淋しかろうから、

2018年4月25日

ちーふりーだーの50 キロハイキング
私が小学校五年生の時、(昭和十五年)父が「元服に因んで何か力試しをやろう」と言い出したのが切っ掛けで、十三里(十三才だから)を歩くことになった。山歩きは好きで、近所の山には良く出掛けていたが、十三里(52キロ)というのがどんなに遠いか皆目見当もつかなかった。同行の父もはじめての経験で、ただ目標として行き先は滋賀県の小川村藤樹神社とした。私の名前が藤樹なので、選んだのだ。自宅から距離はおよそ50 キロ。六月十日の未明に出発した。高野川沿いに進み、八瀬・大原と行くと、夜が明けた。霜が降りていた。霜の記憶は鮮明である。警官に咎められたりもした。
80 年も前のことなので、景観や道路事情もすっかり変わっていて、今では比較することも難しいが、地名はそのままなので、今改めて地図を眺め乍ら当時を思い出してみると、懐かしい。
時刻も日没となり、体力はもうとっくに限界となり、おまけに最終バスが発車するという事態になって、ついに朽木村・岩瀬というところでギブアップした。目標の十三里には達していないが、地図を見ると47キロだった。

2018年4月30日

乃木は感泣して、自分の家を捨て、学習院の中、高等科を全寮制度とし、自分も寮に泊まり込んで、身をもって範を示す体当たりの生活指導をした。一年生が入ってくると、その夜から、まず一緒にフロにはいり、全生徒の名と性質を覚え、時には母親のように優しく親切で、時には父親のように厳格で質素を旨とし、時にはユーモアもあって、それは楽しい生活指導であった。私はこの時、一年生で指導を受けた。その一つの特徴は、美しい助け合いで、級友はみな実に仲がよく、それが老人の今日までつづいているのは、乃木の指導のたまものと、みないまでもいいあっている。
さて、この寮生活で生徒は、カーキ色のボーイスカウトと同じ服(ただしネッカチーフと半ズボンは無かったが)を着せられ、これを作業服と呼んだ。それから、乃木はキャンビングをやってみたかった。しかし、そのころの日本には小さい手頃なテントがなかった。ところが乃木は、旅順の戦利品の中に、かっこうなテントがあったのを思いだし、それを陸軍省から払い下げてもらい、あとはそれにまねて作り、夏の片瀬の遊泳の時、やらせた。我が国最初の青少年キャンビングである。
いまからみると、実に幼稚なものだったが、大自然と親しみ、自らの生活環境を築き、協力一致と相互扶助の精神で、

2018年5月1日

後藤新平最後の言葉
日本に初めて少年団が出来たのは、大正二、三年頃からで、乃木の部下だった伊崎少将は乃木に勧められていたが、乃木没後大正三年に小柴博らと発団式をあげた。このころ、京都の中野中八ら、静岡の尾崎元治郎、深尾韶らとあちこちで少年団を作り始めていた。それが皇太子の英国でのお言葉を聞いて奮起して、静岡で代表者が集まり、少年団日本連盟の結成を見たのは大正十一年四月十三日であった。総裁(のち、総長)には、後藤新平子爵を迎え、理事長には、御渡英のお供をした二荒芳徳が決定した。

2018年5月4日

文明病とキャンピング
日本にボーイスカウトが出来たてのころ、われわれがユニホームを着て道を歩くと「ジャンボリーが通る」という。後藤新平がユニホームで地方に行くと「後藤さんのジャンボリー姿」新聞が書く。

2018年5月5日

ジャンボリーとは、もともと、アメリカ・インディアンのことばで祭典のようなもので、これをパウエル卿がスカウト運動に使って、いまや世界語になった。ところで、近頃は、「ジャンボリー・スカウト」という言葉がある。それはジャンボリーだけ出て、あとはサヨナラで、これは、まったくけいべつされる語なのだが、それは子供が悪いのではない。指導者が悪いのである。ジャンボリーはたしかに、子供にとって楽しい、またためになるものだが、そこまでくる日常の継続した訓練こそ大切である。
もう一つ、スカウトというとすぐキャンピングを連想する。それくらい、スカウティングとキャンピングはつきもので、もっとも重要な訓練の一つである。しかし、これとて、これだけがスカウト訓練のすべてではない。
キャンピングなき、スカウティングは考えられない。しかし、キャンプへ行くまでの日常訓練、また終わってからあとの訓練が大切である。

2018年5月7日

キャンピングは一つの仕上げといわれる。秋から冬、春夏へと、進級制度を活かしたプログラム、言い換えればカリキュラムが基礎となって、ここにキャンピングでその仕上げとなり、その間にも心身が磨かれるべきである。
小さい少年のキャンプを定義して「少年を、家庭、学校より隔絶して、大自然の中に、新しい生活環境を、自らの手で築き上げ、指導者が少年と、寝食を共にして、生活指導をする。」といったことがあったが、初歩の少年には、そこへゆくまでのプロセスが、指導者にも少年にもよき勉強であらねばならぬ。それを近頃、キャンプ流行で不用意に飛びだす人びとをよく見かけるが、ハラハラさせられることだ。心構えなきキャンピングは逆効果となる場合が多い。
またある友人は「キャンピングは人間と自然とのコンペティション」だと定義したが、面白い表現だ。自然が人造りをするとは、日本でも古来、考えられて、修業の大道場とされた。役行者などは、そけを行ったもっとも偉大な先達だが、吾らはそれを青少年に向いたように楽しさのなかでやろうとするものである。
いまや、人間は世界的に、文明病にかかっている。これに反省を与えるのは、大自然のふところにはいってみることである。

2018年5月9日

皮肉作家のジェームス・バリーの戯曲に「アドミラル・クライトン」というのがある。これは、文明人が、大自然の中に投げ出された時の姿を皮肉ったものだ。その粗筋は、英国の伯爵は、議会でも、世間でも、もてはやされた人物で、人間は平等だとの考えを持った貴族である。彼には三人の御姫さまがいて、長女は学問があるのが自慢の種、次女は美人であるのを鼻にかけ、三女は素直な娘である。この一家は、忠実で素朴な従者クライトンとオッチョコチョイのアーネストをつれてヨット旅行に出かける。大暴風にあって、船は難破し、無人島に這い上がる。そうなると、貴族も学問のある人も、美人も、ここでは役に立たず、クライトン一人が、立ち働いて皆を生活させる。木の繊維でナワをない、衣をつくり、家をつくり、魚や獣を獲り、マッチがなくとも木と木をすりあわせて火をつくる。クライトンの力で皆で生活すると、主客転倒の位置となり、三人の娘がクライトンに恋するが、彼は三女と結婚しようと思うトタン、英国から軍艦が助けにきて、みなを本国に連れ帰る。アーネストはクライトンの手柄をとってすべて自分がやったと宣伝するが、クライトンは平然として、また元の忠実な従者で過ごす。これには文明病への風刺がある。

2018年5月10日

三指敬礼か五指敬礼か
初代総長後藤新平の没後、残された子供達がかわいそうだと、後藤の友、斎藤実が第二代総長となった。そして初めて久米川のキャンプに来た。当時の久米川は、よい森林で、真ん中に広場もあり、子供のキャンプ・サイトとしては好適だった。(近頃、この邉に行ったら、森のかげさえなく、工場や市街地に変わっていて、ガッカリした。さて、そのとき、数千の子供たちが広場に集まり、まず斉藤の視謁を受けた。私が先導していて、ウッカリ土バチの巣を踏んだ。怒ったハチどもは、次に歩いてくる斉藤に襲いかかり、半ズボンから、身体の中にはいり刺しまくった。しかし、斉藤は眉も動かさず、ニコニコして視閲をすませ、壇上で訓示をし、それからサンタクロースのように子供らと遊んだ。帰りがけに「おれのサルマタの中にハチがいる。」というので、小さいテントに入って裸にすると、急所まで刺されていた。この話しは、すぐ子供らに伝わった。「僕らのこんどの総長は強いぞ」「えれーぞ、急所をハチに刺されても平気で、僕らと遊んでくれた」と、やんやのかっさいをおくった。
この斉藤は二・二六事件で、青年将校の凶弾に倒れた。そのころから、軍部はますます横暴になってきた。第三代は竹下勇がなった。スカウト運動もこのころから、軍部の中の硬派の圧迫が激しくなってきた。スカウトの国際兄弟主義が気に入らぬのである。
寺内壽一中将が大阪の師団長になったとき、スカウトの三指敬礼を止めよと文句をつけた。大阪のスカウトはがんとしてきかぬので、参謀長山下奉文は、軍略をめぐらした。それは、スカウト内部の分解作用である。軍部が羽振りがよくなると、それにおべっかをつかう人びともできるので、その連中をそそのかして、三指敬礼を止めさす運動がはじまり、三指礼はユダヤの敬礼だとウソの宣伝をした。少年団の内部に、国粋派と国際派の二つにわかれケンカをはじめさせ、全国にもそれが波及して脱退者も出てきた。
それで「寺内さんも、そんなにもののわからぬ人でもあるまいから一つ談合をしてみよう」ということになり、スカウト指導者内の理論家、京都の中野忠八(現理事長久留島秀三郎の実兄)は、師団司令部に寺内師団長をたずねると、寺内は幕僚を従えて、快く会ってくれた。
中野は、三指敬礼の由来から説き起こし、これはスカウト三つの誓いから出ていること、世界中の同志のサインで、外部からの圧力では変えられぬことを堂々と説明した。

2018年5月11日

寺内は。中野の理論に感心したらしく、あとで軍人なかなに中野をほめたそうだ。しかし、そのときは幕僚の手前、荒内は「わかった。しかし、この五指敬礼は天皇陛下のご命令だから、やれ」といった。中野は「それは軍人へのご命令でしょう。我々も軍人になれば、もちろん五指敬礼をします。また鉄道職員ともなれば五指敬礼をします。しかし、スカウト同志は三指敬礼をかえられません」と言い切り、どうやら議論では中野が勝った形となった。
すると寺内は「三指敬礼はカジカンデイルようでいかん、これをみろ、パッパッ」と五指敬礼をやった。中野は「カジカンデいません。このとおりパッパッ」と三指敬礼」でやり返した。これで、もの別れとなった。軍部はそれから手をかえ、政府に手を回し、少年団日本連盟なぞ、すべての青少年団体を発展的解消との名の下に、体よく解散させ、一つに統合して、大日本青少年団を作ることになった。われわれは昭和十六年一月十六日、他日を期して解散式を行った。この大日本青少年団は、歴代の文部大臣が団長となることになったが、一体青少年運動なぞ役人の片手間でやれるものではない。しばらくすると消え失せてしまった。

上部へスクロール